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■2010/03/16 (火)
中学校卒業式 祝辞 |
皆さん ご卒業 おめでとうございます。
中学校までは義務教育といいます。本来ならば、義務教育を終えた時点で、実社会で生きていくための力と覚悟が出来ていなければなりません。皆さんいかがでしょうか。 大丈夫ですか? 保護者の皆様や先生方はどのようにお考えでしょうか。
昔は、貧しい暮らしの中で、子供たちも働きました。大切な働き手でした。本物の苦労の中で子供たちは生きる力を身につけていきました。
しかし、苦労して育った方々のたくさんの努力とご苦労おかげで与えられた便利さが、逆に私たちに学びの機会を失わせてしまいました。
苦労や不自由がある事は不幸ではありません。むしろ、何をやっても良いという環境では、人は自分を支えるのが大変です。我がままになり、そのため、社会や自分自身を壊してしまうこともあります。
不自由さの中に成長の機会や幸せがあります。自分だけのための人生というのは寂しいものです。「自分が誰かから必要とされているのだ」というのは不自由ですが、幸福につながります。
また、社会全体に貢献しているという感覚さえあれば、自分を尊敬できます。
お金にならなくても、自分から不自由や不便を引き受けてみてださい。それは必ずや皆さんを成長させます。
勇気がなければ積極的な人生を生きることが出来ません。
たとえ、失敗や、恥 などがあったとしても、それを超える勇気を持つ人だけがチャンスに恵まれるのです。本当にやさしくもなれます。
「出る釘を叩く」という社会には未来もありません。すべての人の中にある 勇気を応援しあう関係をつくってまいりましょう。私は、皆さんの勇気に期待しています。
平成二十二年三月十六日
阿久根市長 竹 原 信 一
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■2010/03/16 (火)
審議は談合と取引、市民は騙され続ける。 |
市議会に市民に対する撮影、録音を開放するように求めたら、これを拒否したあげく議会審議をやめてしまった。
マスコミはあたかも、「市長の我がまま」のように報道した。
市議会は市民に聞かせたくない理由で大事な結論を出してきた。市民に絶対知られてはならないのは議員たちの腐ったホンネである。
そもそも議会が公開で行われるというのは儀式部分だけだ。
本質的な議論(談合や取引にすぎない)は密室非公開でおこなわれる。これは裁判と同じだ。公式発表を真に受けるようでは単純すぎる、これでは一般市民は騙され続ける。
市民には誰がどのように考えて議会の判断や裁判の判決を下したかを知る手段がない。だから結論から推測するしかない。しかし、議員や裁判官の気持ちになって考えてみれば良く分かる。同じ人間の考える事。「カネの為なら何でもする」という所まで気持ちをおとしめれば、納得いく事が非常に多い。
この国の立法、司法、行政、報道など、全ての権威の裏側は想像を絶するほど腐っている。
勇気を持って、腐りきった者たち(金銭欲が深く、臆病なくせに厚かましい)の気持ちになってみなければ真実は見えてこない。本当は可哀想な人たちだ。いつの日か彼らが精神の牢獄から解放される事を祈りましょう。
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■2010/03/14 (日)
障害者問題について 「独裁者」抜粋 |
http://cid-6d65c929ea5b503b.skydrive.live.com/self.aspx/.Documents/tabu.pdf
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■2010/03/13 (土)
やはり!市議会議員は全くのお飾り、自治労の暗躍 |
独裁者 “ブログ市長”の革命 読者感想(アマゾン)から
>これまで包み隠されていた実態、一つは市役所に勤務する公務員を自治労がたくみにコントロールし、勤労意欲を長い間スポイルし続けたことと、二つ目は市議会議員が全くのお飾りで、存在価値がほとんど無いということを知ることができ、やはりという感想をもちました。
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メールから
コメント:『独裁者』を読みました。竹原市長の行動が初めて理解できました。東京紙の紙面で貴兄の市長再挑戦は知っていましたが、意図が皆目わからないまま、跳ね返り市長と、守旧的市議との泥仕合としか思っていませんでした。市議会からのマスコミ排除は、その意図さえ見えませんでした。ひとえにマスコミの報道姿勢によるものですが、それが記者の単なる勉強不足ではなく、組織化された反市長的な報道とわかり愕然としました。小生も、マスコミ人の一人として、40年余報道にかかわってきましたが、最近のマスコミ人の不勉強ぶりにはあきれるよりも憤りさえ持っています。
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■2010/03/13 (土)
ニッケイ(日本経済新聞)の立場1 |
知り合いの方が「春秋にこんな事が書いてある。」と日本経済新聞の社説記事を指して言った。聞けば「春秋」には権威があるらしい。
見ると、
------------------以下引用
春秋(3/12)
江戸時代は元禄のころに書かれた「土芥寇讎(どかいこうしゅう)記(き)」という珍本がある。難しい題名だが、中身は各地の大名の仕事ぶりから日々の素行までを調べ上げた機密報告だ。幕府の隠密が諸藩に潜り込んで拾ってきたネタを高官がまとめたらしい。
▼「殿様が家来をゴミのように扱えば、家来は殿様を仇(かたき)のようにみる」。タイトルはそういう意味だ(磯田道史著「殿様の通信簿」)。こんな報告書が今もあったなら、鹿児島県阿久根市の市長さんはどう描かれよう。いや、通信簿などなくとも強権的な市政運営で全国に行状を知られるようになった猛者ではある。
▼「改革派」と期待する声も当初は少なくなかったとのことだ。しかるに議会や職員と泥沼の争いを続け、ブログでは激越な言葉を放って物議を醸す。果ては議場にマスコミがいるからと本会議を欠席するありさまだ。課長たちには議会での答弁を禁じているという。その言動はもはや「殿、ご乱心」というべきか。
▼鳩山政権も旗を掲げる「地域主権」の時代である。ユニークな首長が方々にいるのもいいが、こういう人が現れるようではそれに水を差すことになるから地域の責任は重い。地方が何か大きな過ちを犯しはしないか、目を凝らしているのが中央の「官」だろう。新「土芥寇讎記」の準備に余念がないかもしれない。
----------------------------------記事はここまで
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■2010/03/13 (土)
ニッケイ(日本経済新聞)の立場2 |
とても読みやすく書いてある。報道関係者の話では、「記事を書くときには小学校5年生を相手にするつもりで書け」と指導をされるということだ。引用された「土芥寇讎記」はたいへん珍しい本で筆者の博学さが窺われる。にもかかわらず表現がシンプルで、これを読めば簡単に博学な人間の仲間入りが出来たような気持にしてくれる。 権威とはこういうものかもしれない。
しかし、記事は本質的な部分までが単純すぎる。しかも記者は大昔の珍本は読みながら、私の「独裁者」だけは読まずにこの記事を書いたと見える。
阿久根市長の本務は「家来」を養う事ではない。市長は「民、百姓」から選ばれた。市長は「殿」などとは全く異なる。私の使命は「民、百姓」が互いに支えあい慈しみあう社会を作ることだ。
私は「民、百姓」が役人や政治家から騙され、食い物にされている事に対して反乱を始めた。そうであっても議員や役人と市民の対立を煽っているのではない。議員も役人も市民のひとりとしては尊重されなければならない。議員と役人が特権階級であってはいけないというだけの事だ。
残念ながら「権威」のニッケイ「春秋」には権威仲間しか見えていない。呆れた事に中央の「官」に対して、阿久根市政の監視を期待している。
新聞は昔から真実を隠し、大衆をあおり、騙してきた。新聞は官と大金持ちが社会を分裂させて不安にさせて支配する道具だ。必要な時点までは本当らしき事を書き連ね、大衆を引き付ける。大衆は新聞社から日常的に騙され利用されている。インサイダーこそが新聞の本質、本体である。
しかし、発行部数を減らしてきている。大衆の目覚めと共に消滅するだろう。
あらゆるところで足を引っ張ろうとする議会とは決着をつけます。
(市長)
3月14日の日曜日にある駅伝大会の件に関して、「大牟田高校が市長の言動を理由に参加しない」という報道がありました。それについて確認をしました。その件について教育総務課長から。
(教育総務課長)
それにつきまして、私のほうで2箇所電話をしました。
大牟田高校教頭先生に「そういう新聞の内容がありましたが事実か?」と確認したところ、「いやとんでもございません。私たちはそれを原因と考えていない。スケジュールがいろいろありまして、それが原因です」という答えでした。
阿久根市体育協会の浜崎事務局長は、「私たちは一言も、マスコミに対してそのようなことを言っていない」ということでございました。
(市長)
高校の「参加する」「しない」は、葉書で受け取るようになっています。大牟田高校は「不参加」を手続きに沿って送ってきました。つまり「参加予定だったが、突然止めた」とかいうことでもありません。産経新聞の記者も大牟田高校に電話したところ同じ答えだったということです。
私が、西日本新聞の記者に「あなたのところの新聞にも載っていたが、おかしい」というと、「いや、私どもは確認しました」という。どこから聞いたのか聞けば、「それは明らかにできません」という。
私的に作ったか、得た情報で記事を作ってそれを報道する。他にも「鹿児島市長が阿久根市長に苦言を呈した」などという報道をしたが、鹿児島市長からは「そんなことはしておりませんよ。勝手に南日本放送が作ったんです」と話がありました。あるいは新聞で私が「マスコミが私を陥れようとしている」と言ったとか、「命を刈る」なんて発言もしていません。このように勝手に言葉を作り出したり、議会でいろんな写真を撮り、その中で、実際の話をしている時ののとは違う場面の写真を使って、「ふてぶてしい顔をして聞く阿久根市長」とかいう感じの記事を作ったり。日常的に作品を作り出しています。しかも、その作品は著作権を持つ私物です。二次利用はさせません。作品であり商品です。しかも、先ほど言いましたように情報源は明らかにしない、本当にひどい話です。
今は、マスコミと手を握って、どうにか市長を落としてやろうという反対派議員たち、あるいは自治労があるということです。そういったことが、影響しているのだろうと思いますが、やはり職員の動きが鈍い。
「どうせいつかいなくなるだろうから、その間、頭を低くしておけば済むのではないか」という感覚で仕事をしているのが分かる。私もだてに会社経営をしていた訳ではないですから。どのような気持ちで仕事をしているか良く分かる。歩き方を見ただけで分かる。真面目な顔をしてコンピューターの画面を見ている表情からもすぐ分かる。完全に分かる。そうでないと会社経営などできない。
そういうのを変えていかないといけない。私が最初、市長になりたての頃、「降格などしたら公平委員会が出てきて裁判になりますよ」と中野貴文君が言いました。要するに、市長の本当の権限は人事が基本にある。公務員は降格できないとか、本人の了承を得なければならないとか、本当にそんなことなら話にならない。組織ではない。
そういう状態が許されるのだと、市役所の職員たちは思ってきたからこのざまなんです。それぞれが自分たちで法律を解釈して、やりやすいようにやってきた。やりたいことはすぐ動く、したくないことは、何だかんだ、色々な反対側になるような規則などを理由に進めない。市役所の精神性というものが良く分かります。
私もそんな状況に置かれたら同じようにやると思う。気持ちがとてもよく分かる。しかし、それではまずい。
結局のところ、市政というものは市長一人に全責任がある。例えば、池田市長はそれまでの流れに沿った形で定年退職になった人を再雇用して同じようにしていたら、それがオンブズマンに訴えられて400万円以上の借金を負った。個人責任です。庁内の合議を通り、議会を通ったものが、「違法」として市長が個人責任を問われた。市長の責任とはそういうものです。議員の全員にそのような責任はありません。まったくない。責任ゼロです。職員にもない。どのような仕事をしても、規則に沿った形で給料、退職金、年金がもらえる。
私がそのような立場であるということを分かっておいてもらいたい。私は全責任をかけて仕事をさせていただいている。ですから、私に許されたすべての権限、権力を行使して阿久根を作っていく。
命令に従わない者は今、処分します。それが裁判になれば、それは裁判の話ですから、裁判の結果が出ても次の裁判を私がするだけの話です。
裁判はシステムです。システムに対してどのように対応するかは、私の責任においてすることです。
おかしなことをしたら、私が処分します。そういうところにいることを、分かっておいてもらいたい。
それから、この社会というのは、住民が投票した市長に権限があって、やってくれると思っている、しかし、市長になったとたんに、そのような仕組みではないことに気がつく。
山ほどいっぱい色々な法律があって、それに沿った形で動いくということであれば市長はいらない。実際、目標として社会をどうするかということに沿った形で法律をどのように解釈するか、利用するか、法はどこまでいっても道具です。あるいは法律自体を変えるか、そぐわなければそれに挑戦もしなければならない。現実、国もそうやっている。軍隊を持たないと言って自衛隊を持っている。読み替えをやっている。いろんな形で。
それから、例えば、勤勉手当などは、適正に評価し、それに基づいて払わなければいけないのに、評価なんて別世界、全部均一に、犯罪でも犯さない限り同じように払ってしまっている。こんなのは、評価制度が生きているとは言わない。そのような評価であれば、処罰制度だけで済む。今のはインチキです。
人間というのは、常日頃評価されて、それに向かって成果を出そうという習性がある。それを生かすような活用の仕方をしなければいけない。法律というのは、この習性を予定して作ってある。今は、予定してあるものを盗んでいるといってもよい。組織としての命令機能が弱体化している。お役所仕事といわれるのはそのせい。
命令にきちんと従う組織になることを求めます。そのために私は何でもします。私のためではない。私がいなくなっても望ましい阿久根市であるための方法ですから。
竹原だから、あるいは竹原でないから、賛成する、反対する、これではダメ。しかし、それが今の市議会のレベルです。それこそ、人の支配、やりたいようにする世界です。やりたいもの同士が集まって、それが勝ち残っていく社会。残酷です。今の国の仕組みはそう!現実、動いている状態というのは。仲間同士が仲間を増やして、その人たちが勝ち残って今の状態を作っている。そしたらどうなるか、どのような状態であるかと言えば、仲間づくりのうまい人、人をだますのが上手な人のための社会です。マスコミは完全に騙す側の一員です。
政治は誰が動かしているか、私たちに見える世界ではメディアです。
そして、例えば、高速道路などの件で県や国の職員と話しをして分かるのは、「とにかく機運を盛り上げてください」という。「機運を盛り上げるとはどういくことか?」と聞くと、結局マスコミ受けするような行動をしてくださいということ。マスコミが「こちらの方がいいです」というと、そっちに向けてお金が動く。そういう判断をしている。聞いたところでは、裁判所でも、電車の中吊り広告を見て判決を決めるようなことをやっている。民事裁判では、最初で「負担の割合」を決めておいて、理屈は後から付ける。法の支配は嘘っぱち。できていない。
それでも結果的にいい状態を作っていかなければならない。一人ひとりが何かに寄りかかって、それを利用して自分がその社会で上になっていくことが正しいことなんだというのは間違い。
しかし、学校では習いました。「競争することで世の中が良くなると。」違います。皆には必ず色々な役割がある。その役割を社会のために果たそうとする努力、それが社会を良くするのであって、どうにか抜け駆けをして上にもっていこうとする努力によって社会が良くなるのではない。
一生懸命にがんばっても評価されないかも知れない。評価は他人の目ですが、「やっている仕事は現実に役に立っている」という感覚があれば、「生きがい」とか「責任感」とか、「自分自身を尊敬できるようなあり方」と言える。そこが一番大事だと思う。自分を尊敬できない人には生きている価値はない。そういうことが子供たちに伝えなければいけない一番のことです。「争って立身出世しなさいよ、お金持ちになりなさいよ」そんな教育をしていてはダメ。
私たちが変わりましょう。
今の議会との関係ですが、議会ははっきり言って「多数派の人たちは邪魔するために質問をする。」という状態です。こんなのに皆さんが全部答える必要はない。「市長から言われました、答えません。市長の命令です」これでいきます。
今のバカみたいな状況は、決着しなければいけない。本当ならば、前の選挙のときに不信任を受けて、また私が再選したのだから、私に任せるというのが市民の意向、意思の反映である。多数派議員たちはまずそこのところが納得できていない、分かっていない。あらゆるところで足を引っ張ろうとする。議会とは決着をつけます。それを今やっているところ。彼らにはエサをあげない。必ずやりぬきます。 以上。
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