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■2008/08/06 (水)
広島、爆心地の記憶。-1 |
東京に住んでいてこんなに雷が多いなんてビックリだ。
それになんだこのスコールのような雨は;;;;
ヒートアイランド現象ではないかとテレビでは言っていたが、豊島区で灌水、足立区では陥没、文京区では落雷、板橋区では停電、しっかし都心部はモロイナ〜。
ウチのボロマンションは大丈夫かね?
灌水したらアウトダスメタル!
と、おはようございます。
☆
広島、長崎の記憶を忘れずに心に刻む為にも、父の体験を知って頂きたく、昨年書いた日記を少し編集してもう一度UP致します。
宜しくお願い致します。
終戦当時18歳だったワタシの父は、日記で書いた通り陸軍296暁部隊に所属していた。
296暁部隊とは、南方に物資を運ぶ補給隊であった。
が、しかし、戦争が激しくなるにつれて補給隊から特攻に変っていった。
毎日が爆弾を抱えて体当たりする練習に明け暮れるようになっていったのだ。
「もう、逃げられない。」
死ぬんだったら特攻でもなんでも構わないと父は思うようになった。
でも、恐かった。とポツリとワタシに言った。
特攻隊の兄貴や妹や弟、親父の顔がちらついて、このまま死んでなるもんか!敵に体当たりしてやるんだと思ったそうだ。
(当時は兄弟が多い少年が特攻に選ばれた。)
それから、トイレで首を吊って自殺する仲間もでてきた。
だから、全ての兵隊が勇敢ではないんだ、皆恐かったんだと、父は言う。
「それが戦争だ、死ぬしかないんだ!」
☆
そして終戦末期の8月、父は○レ戦闘員として特攻の任務を受けた。
敵駆逐艦に体当たりし、天命を全うす使命だ。
18歳の少年には上官に逆らう力もなければ、生きるんだという気持ちも無くなっていた。但、従うのみである。
何度、母ちゃん!と心の中で叫んだことか・・・・・。
6日の早朝、陸軍の潜水艇で父達は広島を出港し、暫くしてから海上の異変に気がついた。広島周辺に何かが起ったのだ。通信が遮断され本部と連絡かとれない。急いで海面に浮上した父達は、上空の空の色に驚いてしまった。
真っ暗なのだ。そう、原子爆弾が投下されてしまったのだ。
でも、その時は原子爆弾とは分らなかった。
しかし、四国沿岸に潜水艇にて停泊していたため原爆投下での直接の被爆は免れた。
その為、特攻の任務は急遽「救助活動」に変更された。
とにかく、周辺の兵隊達がかき集められた。
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■2008/08/06 (水)
広島、爆心地の記憶。-2 |
広島の陸軍施設は跡形も無くなり、296部隊含めた生き残った兵隊250名は救助作業の為に急きょ広島に上陸することになった。
その間、黒い雨に見舞われ第一番目の間接被爆を体験す。
爆心地に近くなるにつれて、死体の有様は酷く、男女の区別などつかない。
物凄い熱波と焼き尽くされた建物と、自分自らの命も危ない状態だ。
表現が悪いが、死体は人間の焼き芋状態だった。
爆心地から1里(4キロ)地点までが最も被害が多かったそうです。
病院など全て破壊されていたので、爆心地から12キロ近辺の学校に被害に見舞われた人達が収容され、医師や看護婦達が手当てをした。父達はとり合えず10人1グループで死体処理活動を始めた。
25万人の死体はとてつもない数量だ。
一日3000体近い遺体をトラックに乗せガソリンをかけて焼くのだ。
人間1人を4人がかりで運ぶのは並大抵のことじゃない、なにしろ兵隊は痩せっぽちで背ばかりデカク力など出ないのだ。
残された296部隊も集成部隊でより集めの兵隊、みな10代の若者ばかりである。
真夏の熱さと原爆の熱さと熱気で皆身体が参ってきて、バタバタ倒れていった。
死体は炭化した炭のようなものから、ドロドロ状態のものから、熱さで腐敗する遺体から様々だった。
これらの遺体を触るにも、軍手を5枚付けて作業するのだがどうにも人間の皮膚と肉が手足を持つ度にズルむけして、作業は誠に困難極まるものだった。
何枚の軍手がなくなっていった事であろうか…。
そして死臭の物凄さだ。
あの臭いは一生忘れない臭いだと父は言う。
残された兵隊はこの爆弾が原爆と知らずに黙々と作業をし、後に自らが被爆し、亡くなるとは予想もしていなかっただろう。
結局、250人の兵隊の略全員が放射能で全滅し、生き残った兵隊は父を含めて5人だけになった。
後の4人の消息は今もって分らないと言う。
俺はその時一度死んでいるんだ。と、父は夫に言った。
夫は何も言えなかった、、、、、、。
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■2008/08/06 (水)
広島、爆心地の記憶。-3 |
「米国の医療団とか調査団は直ぐ広島に入ったの?」
『アイツラは来なかったよ、来るわけが無い原爆投下は実験だからな。自分たちは放射能の危険を十分知っていたから、3ヶ月してから広島・長崎にやっと調査団が入ったんだ。』
米軍の医療班など一度も来なかったし、被爆による被害報告をするようになったのも、父等の死体処理が終了した3ヶ月後あたりから米国人が広島・長崎入りしたそうである。
だから、米国のカメラやフィルムに残ってる映像は被爆直後のモノはないはずである。
つまり、放射能の恐ろしさを知っていたからこそ直後の爆心地には近寄らなかったのだ。
これらの惨状を知ったワタシは、段々、核保有に反対する気持ちが強くなっていった。
最初は、憎き敵国に原爆投下してやりたかった。けど、そんな事は絶対に許されない。どんなことがあろうが、悪魔の兵器は使用しても所持することも絶対にイケナイノだと思うようになった。
同じ思いを遭わせることは人間としてできないからだ。
被爆した人々のその後は、散々な人生だった。
全身の体毛は禿げ上がり肌は皺くちゃになり、放射能でイカレタ身体は10代の父を老人に変えてしまった。
意識不明な状態で東京に戻った父は、1ヶ月間意識が戻らなかったそうだ。
健康な身体に戻っても「被爆者」ということで健常者に差別される人生が待っていた。
父の人生は被爆を隠すことに徹した。
だから、母には結婚してから告白したのだ。
被爆者だと…。
それを聞いた母はショックで、身ごもったワタシを堕胎しようと思ったそうだ。
医療従事者としての的確な判断だったようだけど、降ろされないで良かった。勇気を持って産んでくれた母に感謝したい。
甘っちょろい平和思想と言われようが左翼と言われようが、ワタシは言いたい。
「核兵器廃絶!」と。
左ではなくてもワタシは日本の『核保有』に反対する。
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Hiroshima - Gary Moore
http://jp.youtube.com/watch?v=5X_7QFlbsW0
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